1990年代前半、平成不況のまっただ中で唯一「不況知らずの産業」と呼ばれたゲーム産業。ハードごとにゲーム専門誌が乱立し、各編集部がスタッフライターを抱え込んだ結果、ゲームが上手ければ学生アルバイトでも記名記事が書ける素晴らしい時代がありました。スーパーマリオからドラクエ、格ゲーブームあたりの話です。
しかし、2000年代に入ってゲーム専門誌は「ゲーム業界の構造変化」と「出版不況」のダブルパンチに襲われ、冬の時代を迎えます。家庭用ゲーム機からモバイル・ソーシャルゲームへと市場が変わり、紙媒体からウェブ媒体へと移行する中で、大量のライターを労働集約的に抱え込むやり方が、折り合わなくなっていったんです。
そんな「失われた10年」ともいえる1999年から2008年。非常に限られた読者の間で極めてニッチな輝きをみせ、スピードの向こう側にバーンアウトしていった若き才能がありました。ゲームライター、原田勝彦です。
1978年4月17日、秋田県出身。1999年にキルタイムコミュニケーションに入社し、『ユースド・ゲームズ』『ナイスゲームズ』などの編集を経て、2000年にフリーライターとして独立。マイナーゲーム誌への寄稿や、ゲーム攻略本の制作にかかわり、2006年に帰郷。自動車業界で働くかたわら、『ゲームサイド』(マイクロマガジン社)に寄稿を続けましたが、2008年に交通事故で急逝。享年30歳でした。
中でも2000年から2008年まで、媒体を『ナイスゲームズ』『ユーゲー』『ゲームサイド』と次々に変えながら続いた『ゲーム・レジスタンス』は、単なるゲーム紹介の枠を越え、ゲームライターとしての生き様を見せつける名物コラムでした。ちょうど『悪趣味ゲーム紀行』『超クソゲー』など、サブカル系のゲームコラムが人気を博した時期があり、最後のキラメキだったように思います。
この連載全収録に加えて、原田氏が手がけた熱いゲーム紹介記事などを収録した遺稿集『ゲーム・レジスタンス』(マイクロマガジン社刊)が、このたび上梓されました。いや、普通は「原田勝彦って誰?」という話になりますよね。死後6年を経て、なぜ今このタイミング? と思わずにはいられない。この鬼籍いや奇跡のような出版に、思わず手が伸びてしまったという塩梅です。
実は原田氏とは約1年という短い時間ではありましたが、グループ会社で同僚だった時期がありました。フロアが違うだけでしたから、よく遊びに行ってバカ話をしたモノです。…
しかし、2000年代に入ってゲーム専門誌は「ゲーム業界の構造変化」と「出版不況」のダブルパンチに襲われ、冬の時代を迎えます。家庭用ゲーム機からモバイル・ソーシャルゲームへと市場が変わり、紙媒体からウェブ媒体へと移行する中で、大量のライターを労働集約的に抱え込むやり方が、折り合わなくなっていったんです。
そんな「失われた10年」ともいえる1999年から2008年。非常に限られた読者の間で極めてニッチな輝きをみせ、スピードの向こう側にバーンアウトしていった若き才能がありました。ゲームライター、原田勝彦です。
1978年4月17日、秋田県出身。1999年にキルタイムコミュニケーションに入社し、『ユースド・ゲームズ』『ナイスゲームズ』などの編集を経て、2000年にフリーライターとして独立。マイナーゲーム誌への寄稿や、ゲーム攻略本の制作にかかわり、2006年に帰郷。自動車業界で働くかたわら、『ゲームサイド』(マイクロマガジン社)に寄稿を続けましたが、2008年に交通事故で急逝。享年30歳でした。
中でも2000年から2008年まで、媒体を『ナイスゲームズ』『ユーゲー』『ゲームサイド』と次々に変えながら続いた『ゲーム・レジスタンス』は、単なるゲーム紹介の枠を越え、ゲームライターとしての生き様を見せつける名物コラムでした。ちょうど『悪趣味ゲーム紀行』『超クソゲー』など、サブカル系のゲームコラムが人気を博した時期があり、最後のキラメキだったように思います。
この連載全収録に加えて、原田氏が手がけた熱いゲーム紹介記事などを収録した遺稿集『ゲーム・レジスタンス』(マイクロマガジン社刊)が、このたび上梓されました。いや、普通は「原田勝彦って誰?」という話になりますよね。死後6年を経て、なぜ今このタイミング? と思わずにはいられない。この鬼籍いや奇跡のような出版に、思わず手が伸びてしまったという塩梅です。
実は原田氏とは約1年という短い時間ではありましたが、グループ会社で同僚だった時期がありました。フロアが違うだけでしたから、よく遊びに行ってバカ話をしたモノです。…
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