2018年1月31日水曜日

「福岡で最も成功したスタートアップ」ができるまで——ヌーラボ創業者・橋本正徳の型破りな仕事論(前編)

「福岡で最も成功したスタートアップ」と呼ばれるヌーラボ。80万人(昨年11月時点)が利用する国内最大級のプロジェクト管理ツール「Backlog(バックログ)」や、約280万人のユーザーのうち海外比率86%超のオンライン作図・共有サービス「Cacoo」などを運営する。創業者の橋本正徳氏は、IT業界では異色のキャラクターと経歴で知られる。そのユニークな歩みを振り返りながら、ヌーラボ成功の要因を探る。


 はい、写真撮ります!とカメラを構えると、奇妙なポーズでおどける橋本正徳さん。レンズごしにそのひょうきんな姿を眺めるだけで、異色の起業家だと実感する。


 本社・福岡のほかに、東京、京都、ニューヨーク、シンガポールに拠点を持ち、新たにアムステルダムにもオフィスを開設予定。80万人(昨年11月時点)が利用するプロジェクト管理ツール「Backlog」や、約280万人のユーザーのうち海外比率86%超のオンライン作図・共有サービス「Cacoo」などを開発。グローバル100名ほどの社員のうち、3割超が外国籍。


――まさに飛ぶ鳥を落とす勢いで世界展開を進めるこの企業、ヌーラボを率いるのが橋本さんだ。近年、「起業都市」として注目を集める福岡で、まだその胎動すらなかったであろう2004年に創業。今では最も成功した福岡発のスタートアップのひとつと呼ばれる。


 福岡のITコミュニティでは知らぬ人のいない橋本さんだが、そのユニークなキャラクターと同様に、経歴も変わっている。その独特の性格とキャリアが今のヌーラボにどうつながっているのか、歩みを振り返ろう。



■30分以上椅子に座っていられなかった

「授業中に立って歩く子どもって社会問題になってると思うんですけど、僕はそのはしりみたいなものかもしれません。今もそうなんですけど、物理的にお尻が蒸れるのがイヤで、30分以上椅子に座っていられないんですよ。だからいつも先生に怒られて、小学3、4年生の頃は僕の机だけ教卓の横にベタ付け。でも、だいたい自分の席にはいなくて、教室の後ろで正座させられていました(笑)」


 福岡で生まれ育った橋本さんは自他ともに認める「落ち着かない子ども」だったが、唯一、時間を忘れて夢中になったのがファミリーコンピューター、いわゆるファミコンでプログラムが組める機器、ファミリーベーシックだった。祖父から譲り受けたファミリーベーシックで簡単なプログラミングをしたり、音楽を作ることにどっぷりはまったという。この趣味は、中高生になっても続いた。


「高校の時は、親が買ってくれたPC-9801というNECのパソコンで遊んでいました。特に、PCで音楽を作るのが好きでしたね。当時はロックのバンドが流行っていたけど、僕はヒップホップ、テクノ系が好きで同級生と音楽の好みが合わないから、家にこもってひとりで音楽を作っていました(笑)」


中島らもに憧れて劇団を立ち上げ

 自分の内なる何かを表現したいというモヤモヤが募った高校時代、音楽だけに飽き足らず、欽ちゃんの仮装大賞にも3度エントリー。友だちが始めた劇団にも出入りしていた。


 この表現欲求に衝き動かされて、高校卒業後は上京して演劇系の学校に入学。作家の故・中島らも氏が主宰していた「笑殺軍団リリパット・アーミー」という劇団に憧れ、間もなくして「三角公園」という劇団を立ち上げた。


「リリパット・アーミー」って、らもさんの家に個性的な人が何人も居候して、ハチャメチャな環境で共同生活している混沌とした劇団というイメージがあったんです。その非日常的でカオスな雰囲気を味わいたくて、僕も劇団を立ち上げたり、友だちと共同生活をしたりしていたんですが、意外に破天荒な生活ってできないんですよ。やっぱり後先を考えちゃうんですよね。らもさんみたいになりたいと思ったけど、僕はそこまでじゃなかった」


 確かに、橋本さんには現実的な一面もあった。物心ついた時から「20歳になったらもう大人。大人は結婚して所帯を持つもの」と考えていたこともあり、20歳で結婚。劇団を解散するとあっさり福岡に戻り、建設業を営んでいた実家の仕事を手伝い始めた。


■デザインの仕事から八百屋に転身

 しかし、職人気質の職場が肌に合わず、「そもそも、体力を使う仕事は向いてない」と3年で退職。東京で劇団やバンドをやっていた時に自らチラシのデザインを手掛けていた経験を活かし、友人とSOHOで新聞折込チラシの製作などを請け負うようになった。もちろんデザインの仕事など初めてで、なんのノウハウもなかったので、つながりのあった建設業者に挨拶回りをして地道に仕事を獲得した。


 ところが友人との関係が悪化するかもしれないという不安から、わずか半年で方向転換。今度は八百屋になった。


「糸島の知り合いが八百屋をやりたいと言っていたので、じゃあ僕がやろうと(笑)。八百屋のことも何も知らなかったけど、福岡の天神にある親不孝通りからちょっと入ったところに店舗を構えて、糸島の農家から仕入れた野菜を売ってました」


 勢いだけで始めた八百屋も、案の定、うまくいかなかった。自分自身も野菜を売ることに情熱を見いだせず、同じく半年で撤退。妻と幼い子どもを抱えて路頭に迷いかけた頃、転職雑誌で「未経験でもOK」と書かれた派遣のエンジニアの仕事を見つけて応募した。



「実家の仕事をしている時から、公開されているプログラムのソースコードを自分なりに改造して、テクノ系の音楽情報サイトを作っていました。そのサイトはけっこう人気があって、クラブに遊びに行くと初対面のお客さんが僕のことを知ってるということも多かった。プログラムは詳しくなかったけど、そうやって高校時代からずっとパソコンをいじり続けてきて最低限のスキルはあったから、なんとかなるだろうと応募したんです」


■夕食のおかずが「焼いた油揚げ一枚」

 面接を受けた橋本さんは、Javaエンジニアとして採用された。これで妻と子どもを食べさせていけるとホッとしたのもつかの間、それから3カ月、無給の研修が待っていた。名刺の渡し方も知らないことがバレて、ビジネスマンとしての基礎を叩き込まれたのだ。


 それまでの1年、チラシの製作でも八百屋でもたいした稼ぎがなかった橋本家にとって、3カ月の無給は痛い。演劇学校時代から連れ添う妻は小言を言うタイプではなかったが、研修中のある日、夕食のおかずが「焼いた油揚げ一枚」だったことで家庭の財政危機を悟った橋本氏は、必死にビジネスマナーをおぼえた。


 そうしてなんとか研修を終えてエンジニアとして働き始めると、初めて仕事が楽しいと思えた。これが転機となった。


「思えば、ずっと自分探しをしているような感じでした。家庭を犠牲にしながら。でも過去を振り返ったら、子どもの頃のファミリーベーシック、高校時代のPC-9801、それからもパソコンだけはずーっと触ってきたんですよね。お尻が蒸れるから長く座っていられないという体の造りは変わっていないから、蒸れを忘れるぐらい没頭できることじゃないと仕事にできないと気付きました(笑)」


 建設業界も、チラシのデザインも、八百屋もしっくりこなかった。「なにか違うんだよな」と首を捻りながら仕事を転々とするなかで、ようやく出会った「お尻の蒸れが気にならない仕事」は、子どもの頃から夢中で遊んできたパソコンを使うエンジニアだった。


■就職せずに自分でお金を作る 

 ようやく腰を据えて取り組める仕事に出会った橋本さんは、派遣のプログラマーとして3年勤務。2004年、所属していた派遣会社で意気投合した仲間ふたりと起業した。「無」の状態から有を創り出す「研究所」という意味を込めて、英語のNull(ヌル=無)と Lab (研究所)を合わせてNULAB(ヌーラボ)と名付けた。起業に対する気負いはなく、「自然な流れ」だったと振り返る。


「そもそも劇団を立ち上げたり、チラシのデザインしてみたり、八百屋をやってみたりとか、就職せずに自分でお金を作る方法をずっと考えてきたんで。僕を拾ってくれた会社に入る時、履歴書に作文をつけなきゃいけなかったんですけど、そこにも、3年後に独立しますと書いていましたから予定通りでした。特段、責任感を持って、みたいなのはなくて、むしろ仲間とワイワイ劇団をやっていた頃に戻ってきたなあ、みたいな(笑)」


 起業の際、3人が目指したのは「エンジニアがエンジニアらしく働ける会社」。具体的には「プログラムをワーッとしてても、楽しい!と思える会社」だった。


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後編〈 福岡から革新的なサービスを生んだ「自由な感覚」——ヌーラボ創業者・橋本正徳 #2 〉に続く


写真=榎本善晃


(川内 イオ)


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